« こんな時期に ポツンと ムシクイ!2019.7.10 | トップページ | ラリー »

2019年7月12日 (金)

『西方指南抄』の記名(5)

次に直弟本は前述のように下末のみ別筆であり、顕智(一二二一~一三一○)の書写であることに異説はない。前五冊は生桑完明氏が表紙の袖書に「釈覚信」とあることから、覚信房(?~一二五八?)の書写と見られて以来、覚信本と呼ばれてきた(25)。ところが平松令三氏は筆致や筆跡から真仏(一二○九~一二五八)の書写と考え直され、いまでは有力になっている(26)。ただそうすると『三河念仏相承日記(27)』が問題になる。それによれば、建長八年(康元元年、一二五六)十月十三日、真仏・顕智・専信・下人の弥太郎が上洛してきて、途中、三河の薬師寺(28)で念仏をはじめた。奇しくも親鸞が『西方指南抄』上末の書写を終えた日であった。そして京都に入り、十月二十五日と二十八日に親鸞から自筆の名号本尊をいただいているから(29)、それまでに親鸞と面謁をはたしたと考えられる。ところが『三河念仏相承日記』は「そうして主従四人御正(ママ)洛のとき、(割註、略)御下向には、顕智聖は京のみもとに御とうりう、三人はすなわち御くたり」とあって、顕智一人が京に残り、真仏たち三人はすぐに帰国したように読める。そこで真仏が康元二年に『西方指南抄』を書写することができないことになるのである。しかし清水谷正尊氏は、『三河念仏相承日記』は真仏が康元元年に帰国したと主張しているのでなく、真仏が帰国した年の末に顕智が三河へ来たと述べているだけであるとされる。そして真仏の帰国は彼が書写した『如来二種回向文』の奥書に「正嘉元年(=康元二年)壬三月二十一日」とあるから、それ以降と見られている(30)。したがってその間に『西方指南抄』を書写することはできたのである。それを覚信房に与えたから「釈覚信」の袖書があり、また真蹟本は真仏に与えられたので「釈真仏」の袖書があるのである(31)。

その真蹟本と真仏の書写本について注意したいのは、先述の箇所でいうと、親鸞ははじめ「西方指南抄曰」とあったのを真仏がそのまま「曰」と書写し、その後に親鸞が「上」と訂正したことから、真仏も「上」と訂正していることである。また巻上本の「法然聖人御説法事」に第十二願文を引用するにあたり、真蹟本は「諸仏国者」の「者」を「土(ト)」と振り仮名まで入れて墨書した後、上から朱筆で「者(シヤ)」と直しているが、真仏本も「土(ト)」と書写した後、磨り消して「者(シヤ)」と直している(32)。それを清水谷正尊氏は、真仏本が書写されてから真蹟本に朱が入れられ、真仏本に反映されたと見るのが自然であるといい、その他の例も示されているが、親鸞と真仏がやりとりをしながら、ときには真仏が親鸞に意見をいいつつ書写されたと思われるといわれている(33)。その他の例も指摘されているが、真蹟本と真仏本は往復しているのである。そこから清水谷正尊氏は、親鸞と真仏がやりとりしながら書写され、時には親鸞に意見をいいながら書写されたと思われるといわれている(34)。これがいま重要であって、『西方指南抄』は親鸞の真蹟本が伝わっており、真仏の目を通している。もし間違いがあれば訂正していたであろう。親鸞も真仏も納得しているのが『西方指南抄』なのである。


(25)『定本親鸞聖人全集』五・生桑完明氏「輯録篇解説」四一二頁。ちなみに覚信房については『親鸞聖人御御消息』第十三通・蓮位添状、『口伝鈔』第十六条(『浄土真宗聖典〈註釈版〉』七六六~七六七頁、九○二頁)参照。
(26)『増補親鸞聖人真蹟集成』六・平松令三氏「解説〈補記〉」、二○○五年、九三八~九三九頁。常磐井慈裕氏「『西方指南抄』直弟本」(『影印高田古典』四・解説、二○○八年)、清水谷正尊氏「直弟本『西方指南抄』」(『影印高田古典』六・解説、二○○八年)、同氏「真仏上人書写『西方指南抄』について」(『教学院紀要』一八、二○一○年)、武田正晋氏『選択本願念仏集講読』(永田文昌堂、二○一三年)五五一頁など。なお佐々木覚爾氏「親鸞聖人門弟の筆跡研究」(『行信学報』二三、二○一○年)は覚信房の筆跡と推定されているが、清水谷正尊氏「『西方指南抄』の成立過程と真仏の筆跡」(『真宗研究』六二、二○一八年)に批判がある。
(27)『三河念仏相承日記』は愛知県岡崎市の上宮寺所蔵本が唯一の写本であったが、昭和六十三年(一九八八)の火災により原形は大きく損なわれ、それ以前に撮影されていた写真版のみが残ることになった。しかし平成十八年(二○○六)同市の東泉寺に古写本があることが発見され、上宮寺本では不明であった箇所が判明するなど、史料的価値は高い。平松令三氏「新発見の古写本『三河念仏相承日記』」(『教学院紀要』一五、二○○七年)、安藤章仁氏「新発見の古写本『三河念仏相承日記』について」(『真宗研究』五二、二○○八年)を参照されたい。前者には影印が掲載され、後者にはそれを翻刻されている。いまは便宜上、上宮寺本を底本とする『真宗史料集成』一・一○二五頁による。
(28)小山正文氏「三河相承日記の一考察」(『日本歴史』三九一、一九八○年)によれば、その薬師寺は「三河最古の四天王寺式伽藍で有名な岡崎市(旧碧海郡矢作町)北野廃寺址にほかならない」といわれている。また同氏「『三河念仏相承日記』の薬師寺─『岡崎市史研究』第三号を読んで─」(『日本歴史』四○三、一九八一年)にも再論されている。
(29)平松令三氏『親鸞の生涯と思想』「親鸞真筆名号四幅にまつわる思い出と問題点」(吉川弘文館、二○○五年、初出は二○○四年)に詳しい。
(30)清水谷正尊氏「直弟本『西方指南抄』」(『影印高田古典』六・解説、二○○八年、九九七~一○○○頁)、同氏「真仏上人書写『西方指南抄』について」(『教学院紀要』一八、二○一○年)。なお『親鸞聖人御消息』第十二通は真仏宛てで、「正嘉元年丁巳十月十日」付けであるから、それまでには下野へ帰国していたことが知られる(『浄土真宗聖典〈註釈版〉』七六○頁)。そして翌正嘉二年三月八日に往生している。
(31)ちなみに梯實圓氏『西方指南抄序説』(西本願寺安居講本、一九八六年)四頁は『親鸞聖人御消息』第三八通の最後に「銭二十貫文、たしかにたしかに給はり候ふ」(『浄土真宗聖典〈註釈版〉』八○二頁)とある「二十貫文」は『西方指南抄』を伝授されたことへの御礼の懇志であったかもしれないといわれている。
(32)『親鸞聖人真蹟集成』五・九、一○五頁、『影印高田古典』五・七、一○五頁。なお、朱筆について『真蹟集成』はモノクロ版なので墨書が目立ち薄くて見えづらいが、清水谷正尊氏が原本にあたり確認されている。同氏『「西方指南抄」について』(同朋舎メディアプラン、二○一三年)二七~二八頁。またDVD版『国宝西方指南抄第一巻上本』(同朋舎メディアプラン、二○一二年)四五分三五、六秒あたりの画面でも確認できる。
(33)清水谷正尊氏「直弟本『西方指南抄』」(『影印高田古典』六・解説、二○○八年、一○○四、一○一二~一○一四、一○一七~一○一九頁)、同氏「真仏上人書写『西方指南抄』について」(『教学院紀要』一八、二○一○年、五六~五七頁)、同氏『「西方指南抄」について』(同朋舎メディアプラン、二○一三年)二二~三○頁、同氏「『西方指南抄』の成立過程と真仏の筆跡」(『真宗研究』六二、二○一八年、一○六~一○七頁)
(34)清水谷正尊氏「直弟本『西方指南抄』」(『影印高田古典』六・解説、二○○八年、一○一一~一○一九頁)、同氏「真仏上人書写『西方指南抄』について」(『教学院紀要』一八、二○一○年)

« こんな時期に ポツンと ムシクイ!2019.7.10 | トップページ | ラリー »